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職安探訪(0_0 |
6月末に前職を辞し. で,来週からまた新しい仕事が始まるのですが・・.
行政書類上は二ヶ月間,「失業者」だったわけでw この二か月分だけ,国保+国民年金に復帰し,そのための書類をいろいろ書いたり. 前職場からも「職安のご案内」という懇切丁寧な書類を頂いたので.
先日,せっかくの失業ライフを満喫するため,行ってみました,職安に.
二か月分だけでも失業給付がもらえるかも&普段なかなか行く機会が無いので見てみたい,という素直な気持ちで.(いや,本当にまじめな気持ちですよ.)
まず印象的だったのは,入り口近くの「総合案内」みたいなところにいらっしゃる職員の方のすばらしい笑顔.
「あの〜 ちょっと会社を辞めることになって・・・ はじめてきたんですけど・・・」とやると 「ご安心ください!お任せください!」と,満面の笑みで対応してくれました.
心に傷を負った(?かもしれない)多くの失業者の方が,彼の笑顔で一時的に救われたことでしょう. 彼こそ,職安を退職して,住宅かお墓のセールスでもやると,かなり稼げると思いました.彼からなら,墓の一基くらい買ってもいい. 一緒に写真を撮ってもらうかと思いましたが(彼の顔だけ切り出して自分の履歴書に張るためw),彼以外の人たちの雰囲気がちょっとそういう感じじゃないので,やめました.
つぎに印象的だったことは,職安の外,入り口近くに,宗教団体だか,あやしげな人材派遣会社だかのスタッフが,固い表情で立って,職安から出てくる失業者の様子をうかがっていること. いかにも「失業給付が今月で切れるのにまだ次の仕事が決まりません」という顔をした人たちを,捕まえて,どこかへ連れて行ってしまうのでしょうか(??
昔イギリスの海軍が,港でうろうろしている若者を拉致して,無理やり水兵にしていたという話をきいたことがありますが・・・.そういえばあの真理教もホームレスを集めて軍事訓練を施したとか言われていましたが・・・その類でしょうか??
おもわず写真を撮ろうかと思いましたが,報道関係者ですら公安施設に連れ込まれて暴行される世の中,やはりどこかへ連れて行かれそうなのでやめておきました.
・・・で,肝心の失業云々の方ですが,
わたし,前職場に9ヶ月しか居なかったので,失業手当支給の対象にはならないそうです(@@ なんでも12ヶ月働いていないと,給付申請する権利が無いんだとか.ああ,無駄だった.
総合案内の方の笑顔がむなしく遠のいていく・・・
あれ?毎月払った,失業保険のカネ,あれは一体・・・??
あとでネットを調べたら,いたるところに「失業給付を受けるには12ヶ月以上の勤務が必要」と書いてありましたー.事前に調べておくべきでした(ーー
交通費だけでも経費として請求したい.
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都内中心部へ引っ越す計画 |
今度の新しい仕事は,秋葉原を中心に,台北とか,福井とか,行ったりきたりします.
体調のこととか,家族との時間とか,仕事の効率,成田へのアクセスなどなど考えると, やはり,今のまま,都下から1時間以上かけて通勤(痛勤)するのは非効率では無いかと.
手ごろな中古マンションでも買って,派手にリフォームして暮らせたら良いなぁ などと構想中.
どうせやるなら,徹底的に. 神田明神の裏手とか, 湯島とか,本郷とか,御茶ノ水とか,遠くても水道橋, 100歩ゆずって千駄木あたりに住居を得たい.
どなたかこのあたりで,中古住宅を売りたくて仕方が無い方,ご連絡ください. 好き勝手にリフォームするので廃屋状態で引き渡してくださっても結構です(その分お安く)
数年後に起こる噂される大インフレを乗り切るためにも,資産を現金から不動産に変えておくこともひとつのテだろう.(とりあえず,一部台湾ドルに変えたのだが…)
そういえば私の先祖は明治維新以前,今の皇居外苑だか,日比谷公園だか,あのあたりの某大名家屋敷に住んでいたらしい.さぞ便利だったことだろう.
もともと今住んでいるところは,父親が購入したのだが, 30年前は,緑あふれる谷戸だったらしい. たしかに,子供のころの記憶だと,朝晩は車の音などほとんど聞こえず, 鳥の声,虫の声にあふれていたっけ. 朝出かけるときなど,里山からおりてくる風が,夏でもひんやりしていて心地よかったものだ.
たとえ都内から1時間以上かけて帰宅したとしても,ふと,のんびりできる.自然を感じられる,そういうところに弾かれて,親の世代はここに暮らしていたのだろう. しかしいまや,すっかり開発が進んでしまって. 涼やかな風をおろしてくれた里山は単なるアスファルト固めの住宅群だ,降りてくるのは熱気の塊の自家用車ばかり.農道みたいだった近所の道も,大渋滞で排気ガスにあふれている.これなら都心部と何が違うというのだ??
というわけで,家探し.
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帰省&転職などなど |
早いもので7月ももうすぐ終わりですね.
10日間ほど台湾に行って,先日帰ってきました. 今回の旅は台湾の友達,親戚などなど,たくさんの人に会う旅でした. 台北から新竹,豊原,南函,そして花連,梨山,宜蘭・・・と, 台湾の北半分,方々に連れて行ってもらい,たくさんのみんなと食事したり,話をしたり. 妻の両親,妹,友達,会社の仲間,留学時代の先輩・・・と,みんないろいろと親切に,心をつかってくれて,感謝です.力をもらいました.
なによりもことばが分かるようで分からない(台湾語&中国語を聞いているとだいたい何の話をしているかはわかるので,話に参加したいのだが・・・,そう,もともと頼まれてもいないのによくしゃべる性格であった..が,とりあえず中国語ではしゃべれないので,日本語でしゃべり,話題に乗ろうとする),そういう迷惑な私のために通訳の役に心を砕いてくれた妻にお礼をいいましょう.
ちなみにこれまでの経験上,「無口な人だ」と思われていた方が,世の儀礼的な関係はスムースに進むことが多いといえる.あたりさわりない表面的な人間関係を乗り切る上では,しゃべらないに越したことは無い.口は災いの元なのだ.
とはいえ時に多弁は,他では得がたい人との出会いと交流の時間を許してくれる.いつまで話していても話が尽きない・・・そういう人との出会いは瞬間瞬間を生きるうえで何にもまして貴重だと思う.
一年弱勤めた会社をやめて,8月からは,新しい仕事をやらせてもらえることになった. わずかな期間で数百枚の名刺をばら撒いた記憶があるが・・ 仕事の関係を超えたところで,そういう「話が尽きない」方々と出会うことができた. 今度の仕事は,そういう方と一緒にやらせてもらえる.とても楽しみである.
めまぐるしい旅行から帰り,成田からバスに揺られてボーっとしていると, 自分の生きる場所,自分が生きている社会関係,人間関係ということを, すこし距離を置いて,いわば「国境」の線の上から眺めることができる,稀な体験をする. 二つの社会の間を移動するこの数時間は,直線のような時間感覚を止めてくれるのだ.
その時間はいわば自分自身と語りつくせぬ対話をする時間だ. いつもは自分ひとりでしゃべっていて,他の自分としゃべっていなかったな,ということに気づく. 白昼夢のような不思議な時間だ.
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そろそろエアコンの季節 |
水気を含んだ夜であった. 肺に吸い込む空気の重さから,空気というものの「モノ」としての存在を直接感じざるをえない. 水の中に居るようなものだ. 木造建築に雨がしみこむときの,あの独特の気配に満ちた部屋に居る.
ガラス戸をすべてあけ放ち,下の路地を眺めていた. 雨音は遠くへ去っていったところ.雨の名残が家々の屋根を流れ落ち,路地にしみこむ音の方がにぎやかである.時折,どこかで人の歩く音もあるようだ.
路地の両側は似たような気配の家々が立ち並び,ところどころ,橙色の光が漏れている. この湿気で,はす向かいの窓からもれる光まで,ぼーっと散乱してしまい,空気にしみこんでいるようだ. 光源の存在もあいまいな感じだ.こういう光は実体の表面を映し出す力,別の言い方をすればそれによってかろうじて「実体」という幻想に感覚的確信を与えてくれるような力を,どこかに置き忘れてきてしまったかのようだ.もはやものを見る眼に従属することのない光とでもいおうか.眼を閉じたときに見える光の粒のようだ.

今夜はどこも水気に満ちているのだ.
路地が向かう先にまっすぐ眼をやると,その先は,人がやっと通れるほどのつり橋になっている. その下には,黒々と,しかし,雨上がりのわりにはひんやりと静かな河が流れている. 対岸にもまた,こちらの路地と同じような町並みが広がっている様子が見える.
こういう夜は,窓を開けて,何を見るとも無く外を眺めているのがよい. 小さく固着しがちな意識と体が,夜に溶け出していくようだ.
感覚に直接残るのは皮膚という境界の物質性だけだ. それも,皮膚の内側も,皮膚の外側もまた,それぞれ物質であるということを思い出させてくれる,そういう感覚である. 私,と空気,といま私が座っている畳,これらの間にあるのは,物質の密度の違いだけだ. それも静的な粒子の密度の違いのようなものではなく,流れ方,滞り方の違いとでもいおうか,そういう連続性の感覚である.すべてはひとつの流体のようなものであり,その固まり方,滞り方,流れ方の違いで,私になったり,空気になったり,畳になったり,この家になったり,橋になったり,河になったり,光になったりしているのだ.
常に解体されつつ再生されている,皮膚という,そのあいまいな境界性に,内から外へ溶け出し,外から内へ浸透されているような,そういう連続性が実感として訪れる.
この部屋も,路地も,そして河も,端の向こうのかすかな明かりの揺らぎも,聞こえるような聞こえないような足音も,すべてモノの実体のようなものを失っていく感覚.
瞬時に私は,自分が本当は今ここの部屋に居るのではなく,対岸の,あの明かりが漏れているのが見える,あの部屋に居るのだという直感を得る.そして次の瞬間,自分がつり橋の上に立って,いまこの部屋の窓からもれる明かりを眺めていることを思い出した.
溶け出し,浸透され,複数化され,そして存在の根源にある単一性,存在を在らしめている力のようなものの正体に触れてしまっているような,この充実した感覚器官が死んでしまったような感覚.
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湿度の高い夜に,エアコンを節約して暮らしていると,こういう夢を見るのだ(^^; 不健康であることこの上ない.
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ドーナツ状 |
お久しぶり。 ここしばらく諸々に忙殺されまして、ブログもすっかり荒廃させてしまいました(^^;
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なんでもここのブログサービス、一月以上更新しないと、広告が表示されるんですね。 ちゃんとページの内容を解析して、 ブログを読んでくれた方が興味を持ちそうな企業の広告を出しているようです。
前回の記事には人体に電子デバイスを組み込むといったような話だったのですが、 ちょうどコンタクトレンズが登場していたようで・・ 広告は眼科とか、脳の病院とか、そういうものが並んでいました。
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こういう広告って、ブログの文字列を解析して、頻出しているキーワードを集めて、 そのキーワードに連動させて、表示する広告の内容を自動的に選択しているらしいです。
しかし、このテキスト解析というのがクセモノ。
キーワードとして検出された文字列の「意味」は、字面そのものの、いわゆる辞書に書いてあるような意味とは限らない。
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ある文字列が存在するからといって、その文字列で指示されるとされている何らかのモノが、直接言及されているとは限らない。「眼」という言葉が出てくるからといって、眼球の話をしているわけではなくて、たとえば物事を認識する枠組みのことを話しているのかもしれないし、夜空の月のことを話題にしているのかもしれない。
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言葉の真骨頂は、まさにこの外堀を埋めるように「たとえ」を重ねて、最後まで中心の目的とする対象に直接言及することなく、しかしその中心について語るという技法にあると思う。いうなればドーナツ型ということ。ドーナツの中心の穴は、周りのドーナツがあって始めて対象化されるわけであって、周囲の揚げ物と無関係に穴それ自体として自存するわけではない。・・・言葉にはそういう、ドーナツの穴を見せるような、そういう機能があると思うのだよ。
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このようにドーナツ、ドーナツと繰り返していると、ドーナツの広告が掲載される可能性が高まるのだろうか。
いずれにせよ、対象物をそのままズバリと言い当てようというのは、言葉の使い方としてはかなり無理のある・・・ というか、言葉を過信したやり方だと思われる。むしろドーナツの穴のように、周りを埋めてゆくことでその輪郭が現れてくるような・・・そういう「対象」を対象化する絶妙な役割を、言葉が果たしているという状況が望まれる。そういうふうに言葉を使うコミュニケーションが望まれる… というか望むまでもなく、実はそれが本来の姿なのかもしれない。

言葉の「意味」とは、煎じ詰めれば「言い換え」である。 A=B、B=C、C=・・・という具合に言い換えは、権利上はいつまでも際限なく繰り返すことができる。まさにドーナツ状だ。言い換えを重ねれば重ねるほど、ドーナツの揚げ物部分が充実し、真ん中の空洞の輪郭がはっきりしつつ、かつ、それがどうしても充実しえない空洞であるということが際立つわけよ。・・・で、言い換えをやめたところで、考えなくても生活ができる日常が生まれるのでしょう。
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人体に貼り付ける新デバイス |
Electronic Contact Lenses for Better Vision http://www.medgadget.com/archives/2008/01/electronic_contact_l

コンタクトレンズに光源を組み込むことにより、 眼球に直接刺激を与え、映像を認識させるという仕組み。 脳に電極を突き刺すまで、後一歩、といったところだ。
このニュースがいろいろなところで引用されているのは、 このコンタクトレンズを見たときに、言い知れない不気味さを覚える人が少なからず居るからではないだろうか。
ナイフで傷をつけられる感覚、あるいは異物を無理やり嚥下させられる感覚。
とはいえ、 こうした不気味さは、少しづつ失われていくのではないだろうか。
人間にとって、自分と自分でないものとの境界とは、決して自明な、決まりきった、不変のものではない。
素朴には身体の表面が自分と自分でないものの境界だと論じられがちであるが、これは誤認である。 身体の表面が自分と自分でないものの境界であるという発想は、人間というものを、その物的身体として対象化した場合に成立するひとつの限定的な認識である。
しかし人間の生き様をそのカラダそのモノに還元してしまうことは、直感的に、どうもしっくりこない。 カラダが全てという認識は、ちょうど医者が、私の身体を押したりたたいたり引っ張ったりして、ここをこう切って、中身を取り出しましょう…などと平然と語るのを聞くときの、私の違和感に近いものがある。
意識の範囲は、身体が占める空間的範囲とは、すこしズレている。
目、耳、口などは、身体からの距離的に離れたものを自分自身にとって欠く事のできないものとして見出すことがある。 深夜に帰宅するとき、遠くから我が家の灯が見えるときなど、カラダはもうすっかり、家の中に居る気分だ。 逆に、本当のカラダの中身、身体の内奥の鼓動、体液の流れなどは、しばしば意識されない。 自分のカラダの中で、免疫のシステムが若干の不調を来していることを、感じられない日は少なくない。
意識するものとしての人間にとって、自分の範囲は、身体の表面を基準にして、内側に少し、外側にそれぞれの感覚器官に応じた距離、そして思い出すことができる記憶の範囲であろう。
マクルーハンを引き合いに出すまでもなく、 人間の身体は、身体の諸々の感覚器官に刺激を与える装置、装具によって拡張(あるいは限定)される。
レンズは、めがねや望遠鏡、顕微鏡として人間の認識の範囲、つまり自己の範囲を機械的に拡張してくれる。 録音装置とスピーカー、アイポッドなどもそうだ。耳に音や声を流し込み、いまここを、いまここの物的制約から引き剥がす。不潔で劣悪な通勤電車も、自分だけのオーディオ・ルームになる。イヤホンを耳に詰めて目を閉じれば、もうそれだけで、その場所はその場所ではなくなる。 余談だが、残るは呼吸に関する装具だろう。いままだ、マスク程度しか現れていないのが不思議でならない。耳に流れ込む雑音を、イヤホンから流れる美しい音楽で浄化したならば、残るは、鼻から口から流れこむ汚れた空気を、自分だけの心地よい香りに変えてくれるような。そういう装具は売れると思う。 最近は嫌われ者のタバコなども、じつはそういった、空気を「浄化する」、というか自分だけの空気にする、そういう働きをするものだろう。だからこそ、他人のケムリを無理やり吸わされることに、極端な拒絶反応を示す人も居るのだ。単にケムリが臭いからではなく、他人のかじり欠けの食品を無理やり口に押し込まれるような、そういう気持ちの悪さとでも言おうか。
口に含むものも、香りも、根本的には食事もだ。人間をいまここから遮断すると同時に、別のどこかへと跳躍させる。食事など、意識のレベルと物的なレベルの双方で、人間の境界を絶えず揺るがしているのである。食物は外からやってきて人間の一部になる。だからこそ人は、食物を入念により分けるのだ。そして執拗なまでに手を加える。自分と自分でないもの、ということを区別する意識があるからこそ、他の動物との比較にならないほど、食べ物に手を加え、それが人間のものであるという情報価を加えた上で、はじめて咀嚼するのである。そしてしばしば、ひとは食物が食物になる以前の姿を、ひどく恐れるのだろう。それはあまりにも自分たちとは違うから。
つまり人間は本来的に、身体にモノや器具を身体表面に貼り付けることによって、感覚を、つまり自分自身とその世界を作り変えてきた生き物である。身体表面というのは、皮膚のみならず、眼球の表面から鼓膜、鼻腔のなかの感覚をつかさどる細胞、舌、そして胃壁、腸壁なども含まれる。
さて、さきほどのレンズであるが、このレンズの「気持ちの悪さ」は、レンズそのものを見せられていることによるものだろう。しかし、いつの日か、このレンズがわれわれの目に未来の映像を見せた時、このレンズは、限りなく透明になる。
アイポッドも、音が出なければただの箱。このレンズが本当の姿を現すのは、その映像がわれわれの眼球に注ぎ込まれるときであろう。
モノを人体に貼り付けたところで、それだけでは人間は特にどうにもならない。 むしろ、そのモノを媒介にして向こうからやってきて、そして身体表面から吸収されていくモノこそ、明日の人間を作る材料であり、つまり日々絶妙な再生産のプロセスによってかろうじてその同一性を維持しているに過ぎない人間の実体そのものなのである。
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